観光いろいろ

「明神池」――「修験の里」の霊的シンボル

更新日:2010年07月15日

「大峰奥駈道」を支えた下北山村の信仰拠点

最後にご紹介するのは

下北山村「大峯奥駈道」の関係、

並びに三重県熊野市「花の窟(いわや)神社」

「明神池」のつながりです。

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(春の下北山村)

世界遺産である「花の窟神社」は、

イザナミノミコトを祀る日本最古の神社として

同じく世界遺産である「熊野本宮大社」和歌山県田辺市)の

ルーツなのではないかとも考えられている神社です。

そもそも世界遺産として登録された

「紀伊山地の霊場と参詣道」は、

吉野、熊野、高野山といった「聖地」

「大峯奥駈道」、「熊野古道」などの「修行と信仰の道」に大別されますが、

それらは周辺地域の寺社仏閣有機的な繋がりを持ちながら、

千数百年をかけて巨大な「信仰のエリア」

形作ってきた「力の場」でもあるのです。

中でも「大峯奥駈道」の中間地点にあたる下北山村は、

稜線上の「宿(しゅく)」を支える信仰拠点、

並びに物資の補給地として

数多くの修験者が出入りした村でした。

その信仰活動の中心にあったのが

役行者をまつる社(やしろ)として

江戸時代までは「池峯大明神」と呼ばれていた

「明神池」「池神社」なのです。

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(池神社)

長い歴史と

数えきれないほど多くの人々によって育まれてきた

「祈りの場」であり、

現在もなお「奇跡譚」が絶えない

神秘と伝説の池「明神池」

どうか敬虔な気持ちで足を運んでください。

「池の不思議」に出会う祝福

いただけるかもしれません。

▼「大峰奥駈道」を支えた「修験の里」

「深仙の宿(じんせんのしゅく)」を支えたのが

そこから2時間余り下った場所にある「前鬼」であったように、

「大峯奥駈道」の稜線上にある

いくつもの「宿(しゅく)」を支える

「ベースキャンプ」のような役割を果たしてきたのが、

下北山村の各集落でした。

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(「大峯奥駈道」の途上にそびえる「大日岳」

この山の反対側にあるのが「深仙の宿」)

実際に江戸時代、

「大峯奥駈道」当山派本山派「門跡(もんせき)」

数多くの修験者らと共に集団で「峯入り」するとき、

「宿(しゅく)」のふもとの集落に住む村人が

警護のために入山し、

松明(たいまつ)や食料を提供したとの記録が残されているのです。

例えば「南奥駈道」「転法輪岳(てんぽうりんだけ・1281m)」

北に位置する「平治の宿(へいじのしゅく)」は、

「池原」「池峰」、「寺垣内(てらがいと)」の村人が警護を勤め、

「行仙岳(ぎょうせんだけ・1227m)」の北にある

「怒田の宿(ぬたのしゅく)」は、

「浦向(うらむかい)」などの集落の人が担当したということです。

そもそも村内の集落が、

稜線にある「宿」との関係で成立したのではないかという説が

あるくらいです。

「大峯奥駈道」の稜線の周囲は

「一木一草刈ってはならない」とされてきましたので、

「平治の宿」で修行する山伏たちが

物資補給のために開いたのが「池峰」の集落であり、

「怒田の宿」の山伏が開いたのが「浦向」なのではないかとすら

言われているのです。

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(明神池の紅葉)

確かに村内には、

「笠坊(かさぼう)」、「細利坊(ほそりぼう)」、

「大平坊(おおひらぼう)」などといった

「坊」のつく地名がいくつも存在します。

つまり下北山村「大峯奥駈道」「宿(しゅく)」を支えるための

重要な「修験の里」だったということで、

その中の信仰拠点が

役行者が開いたとされる

「明神池」「池神社」だということなのです。

現在も村民のほとんどが

「池神社」氏子となっておりますが、

ここは文字通り遥か昔から

「村の信仰のシンボル」といえる場所であったのです。

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(「大峯南奥駈道」の「持経の宿(じきょうのしゅく)」

近くにある「持経千年桧(ひのき)」。

まつられているのは不動明王)

▼平家落ち武者の里

ちなみに、吉野からさらに奥山を分け入ったこの村は、

「平家落ち武者の里」でもありました。

「明神池」のある「池峰」集落一帯は、

平家の武将」たちと追手らによる

「最後の激戦地」であったと伝えられています。

しかしさらに奥山に逃げ延びるなどして

生き残った武士たちは、

その後里に下りてきて

農業や林業をしながら暮らしました。

下北山村に「平(ひら)」や「上平(かみだいら)」、

「平井」「平尾」「平西」など「平」のつく名前が多いのは

そのせいだと言われています。

また余りにも「平さん」が多いので、

「平」の字をアレンジして

「中」の苗字にしたとの話も伝えられています。

(「中さん」もたくさんいらっしゃいます)

このほか「上垣内(かみがいと)」、

「下垣内(しもがいと)」といった苗字や、

「寺垣内(てらがいと)」、

「松葉垣内(まつばがいと)」などの地名も残っています。

この「垣内(がいと)」と言うのは

そもそも平家の人たちが使った「都言葉(みやこことば)」で、

「~~以外は何も無い」という意味を表しているそうです。

すなわち「寺以外何も無い」、「松葉以外何も無い」

という意味ですね。

都を偲んだ平家の人たちの心境が

ひしひしと伝わってくるかのような地名です。

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(「池神社」の秋祭り)

さらに「大峯奥駈道」にある「平治の宿(へいじのしゅく)」

以前は「へいしのしゅく」と呼ばれており、

これは「平氏」を意味する名前であったと言われています。

「池原」の集落には戦前まで

先祖伝来の刀を所蔵している民家が多数ありましたし、

ときおり歌舞伎役者のように端正な面立ちの村人を見かけるのも、

そのような血筋のせいかもしれません。

「平家の末裔」たちは

素朴な民間信仰が息づく村の中で、

学問や仏教、神道などの各分野における

「指導者的な役割」を果たしてまいりました。

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(雑木林を照らす西日)

▼「明神池」の雨乞い物語

最後に霊験あらたかな「明神池」

「雨乞い物語」を紹介いたします。

熊野市にある世界遺産

「花の窟(はなのいわや)神社」氏子総代

和田生(わだはえる)さんから聞いた話です。

役行者に踏まれた大蛇の頭が落ちたとされる

「有馬の池」(現在の「山崎運動公園」)

がある熊野市有馬町では、

昔から「雨乞い」をするときは「明神池」の水を使ったといいます。

最後の「雨乞い」が行われたのは昭和25年8月

日照りで田んぼが干上がりそうになったとき、

有馬地区では「雨乞いの御神事を行おう」

ということになりました。

これは往復70キロ以上の道のりを歩いて

有馬から下北山村「明神池」に行き、

竹筒4本に水を汲んで帰るというもの。

その後「花の窟(はなのいわや)神社」に水を供え

神主に御祈祷をしてもらった上で、

夕方から蓑・笠を着けて

村人総出で「雨乞い踊り」を踊るのです。

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(「花の窟神社」とつわぶき)

長老たちから依頼を受けた和田さんら地区の若者たちは、

「雨乞い」の決まり通り8人ずつの2組に分かれ(※)、

竹筒を持って出発することになりました。

※(1組目は「明神池」まで行き、

2組目は途中の熊野市五郷

竹筒に入った「霊水」を受け取る予定でした)

ところが「若い衆」の中で

「途中の熊野市五郷(いさと)まで車で行ってもバレないだろう」

と言った者がおり、

あろうことか全員がそれに賛同してしまったのです。

五郷で車を降りた若者たちは

その後は全て伝統にのっとって行いましたが、

翌日「花の窟神社」で一晩中「雨乞い踊り」をしても

一滴の雨も降りませんでした。

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(「花の窟神社」の参道)

次の日になって往路の半分を車で行ったことが発覚し、

雨が降らなかったのはそのせいだということになりました。

そのため五日後に、

もう一度「雨乞い」をやり直すことになったのです。

今度は若者たちも真剣です。

再び有馬を夜に出発し、

全行程を歩いて深夜に「明神池」に到着。

静寂の中でお参りをした後、

バチが当たったらどうしよう」との不安に駆られながらも

池の神様を怒らすために神社の前で大騒ぎをし、

池に木や石を投げ入れました。

そして4本の竹筒に池の水を汲み、

一言も喋らず徹夜で帰路をたどったのです。

翌朝「花の窟神社」に到着し、

水を神前にお供えして祈祷してもらったあと

どっと疲れが出て休みました。

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(「花の窟神社」の御神体)

夕方になって

和田さんたちのところに、

「神社にすぐ来るように」との連絡が入りました。

大急ぎで駈けつけると、

神社の横の海岸線に大勢の人が集まって海を眺めています。

見ると沖合に厚い灰色の雲が立ち込め、

その下には見たこともないような真っ黒な「竜巻」が立ち上がり

ゆっくりと北の方へ移動しているではありませんか!

「それを見た瞬間、畏怖と感動で全身に鳥肌が立った」

と和田さんは語っています。

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(「花の窟神社」御神体の岩盤上部。

「お綱掛け神事」のときに花をつりさげるわら縄が残っています)

やがて蓑・笠をつけて

「花の窟神社」の境内で「雨乞い踊り」を始めると、

天が抜け落ちたかと思うほどの

猛烈などしゃぶりとなりました。

雨は半時間以上続きましたが

村人は嬉しさの余り、

濡れるのも構わず踊り続けたということです。

和田さんにとっても

「神の力」が下る瞬間を目の当たりにした、

忘れられない体験でした。

「これが僕の信仰の転機になった」という和田さんは、

その後「大峯奥駈道」を行ずる「修験」の世界に身を投じ、

83歳(2011年現在)となった今も

現役で「奥駈け」を行っております。

和田さんによると

「日照りになったらまた明神池に行って雨乞いをしよう」と

心に決めていたそうですが、

その後60年以上経った現在まで、

「雨乞い」が必要なほどの日照りには

一度もならなかったということです。

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(池神社の「釣り燈籠」)

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