観光いろいろ
「池神社」を、田中利典・金峰山寺執行長が参拝されました
更新日:2010年07月15日
明神池の「池神社」に、金峯山寺の執行長が参拝されました
2011年11月15日、「明神池」のほとりの「池神社」に、
吉野の金峰山寺(きんぷせんじ)・執行長で
金峯山修験本宗・宗務総長の田中利典(りてん)氏が
参拝されました。
「池神社」についての詳しい記録は
火災によって全て消失しており、
本殿の奥に祀られている「絶対秘仏」の御神像が何であるのかは、
ずっと謎のままでした。
宮司すら、開けることを許されていなかったからです。
しかし明治元年の「神仏分離令」の直後に
神社の氏子総代を務めた人物のひ孫にあたる
村の古老(2011年現在で88歳)が、
江戸時代生まれの祖母から御神像のことについて伝え聞いていました。
その像は錫杖を持ち、膝を立てていたといいます。
つまり「役行者像」だというのです。
(池神社)
そもそもここは天武天皇(673-686)時代の「白鳳年間」に、
役行者が神気に打たれて開いたと言われる神社です。
開山が役行者なのですから、御神像が役行者像であっても
不思議ではありません。
実際、江戸時代までは村内の四つの寺の住職と、
前鬼(ぜんき)の修験者が交互に祭を執り行っていたと伝えられています。
すなわち、江戸時代まで「池峯大明神」と呼ばれていたこの神社は、
かつては「行者堂」であったということなのです。
(晩秋の「釈迦ヶ岳」遠望)
「大峯奥駈道」は「釈迦ヶ岳」の北の
「両峯分け(りょうぶわけ)」と呼ばれる場所を境に、
北部は「金剛界」、南部は「胎蔵界」とみなされています。
金剛界における山中の修行拠点が「山上ヶ岳」であり
それを支えたのが「洞川(どろかわ)」や
「天河弁財天」であったのと同様に、
胎蔵界における修行拠点が
「釈迦ヶ岳」や「深仙の宿(じんせんのしゅく)」であり、
それを支えたのが「前鬼」、
さらに「前鬼」を支えた「里の信仰拠点」が
ここ「池神社」だったのです。
「池神社」は大峯修験における大変重要な霊場であったにも関わらず
そのことは現代では
ほとんど知られておりませんでした。
(明神池)
とはいうものの「天正太平記」によると、
池峰地区にある「明神池」を通過した大塔宮護良親王について
「(大塔)宮は兎角して、大峰禅定の秘所 池之峯を上がり
転法輪の嶽を過ぎて十津川へ着き給る」
と書かれています。
「転法輪岳(てんぽうりんだけ)」というのは、
「大峯南奥駈道」にある標高1281mの峰のことです。
(対岸から見た「明神池」と「池神社」)
また「文明十八年(1486年)佛子教典謹書写之」と記されており
山伏の先達(せんだつ)が書いたと思われる
「峯中記(ぶちゅうき)」には、
「転法輪嶺、是れより北東に当たって
池の神社という大池あり、この池は、
神代の昔に出池す」との記述があります。
大峯山麓の高台にひっそりとたたずむ
「明神池」と「池神社」は、
「里修験の中心」であると同時に
「大峯修験」における「秘密の行場」と
みなされていたということです。
(大峯奥駈道から前鬼に降りる分岐「太古の辻」)
この度、「大峯奥駈道」の北の玄関である
吉野の金峰山寺・執行長である田中利典氏に「池神社」にお参りいただき、
さらに今後、修験道としてもここでのお参りは欠かせないものになるとの
見解を示していただきました。
「池神社」の御神像が役行者、すなわち「神変大菩薩」として
大峯修験の代表者に参拝されたのは、
明治元年(1868年)の神仏分離令以来、
実に140年ぶりということになります。
これで明治政府によって解体させられた
大峯修験のミッシングリンクが繋がり、
「大峯奥駈道」の霊場全てが、復元されたと言ってもよいでしょう。
お参りの際、田中氏が「神変大菩薩」の御真言を唱えられたとき、
急に突風が境内を駆け抜けたため
その場にいた全員が強い驚きを禁じ得ませんでした。
(般若心経を唱える田中利典氏)
「あのときの風は本当に不思議でした。
私も真言をお唱えしながら身震いをしました。
『しかと、聞いておるぞ~!』という感じでした。
ずっと奥駈で、前鬼山から浦向(うらむらい)への移動の際に
池神社の前を通りながらお参りできていなかったので気になっていました。
念願が叶い、私もありがたかったです」
と田中氏も言われました。
これを機に、ここ十数年村人による目撃情報が途絶えていた
池の水神(すいじん)の龍神が、
再び見られるようになるかもしれません!
皆様もどうぞ、下北山村まで足をのばして、
霊験あらたかな「池神社」にお参りください。