観光いろいろ
「天誅組」が村に来た日
更新日:2012年03月26日
天誅組と下北山村
下北山村に天誅組が来た日。
それは村民を驚愕させる大事件でした。
そのいきさつと概略を村の小学生が調べる際に利用した資料を、
ここに紹介いたします。
挙兵
文久三年(1862年)、天誅組の乱が起こった。
この年、京都に集まっていた
尊皇攘夷運動過激派の吉村寅太郎らが、
公家の山中忠光を立て、
8月13日孝明天皇が攘夷祈願のために
大和へ行幸をする機会に挙兵する計画を立てた。
しかし天皇の大和行幸が中止となったため8月14日、
京都を出て大阪~堺~河内を経て
千早峠(ちはやとうげ)を越えて大和国五條に入り、
幕府の代官所を襲い代官の鈴木源内(げんない)らを殺した。
(下北山村の紅葉)
天誅組は五條にある桜井寺に本陣を置き、
「五條御政府」をとなえ大和の諸藩や民衆に参加を呼びかけた。
ところが孝明天皇が大和行幸を中止されたため、
挙兵の名分を失ったのである。
逃亡
やがて天誅組は、郡山、彦根など諸藩の軍勢に攻められ、
吉野郡の十津川の郷士を味方につけて高取城を襲い失敗。
十津川郷士は、北山郷へ逃げてくることになった。
(奈良、三重、和歌山県にまたがる
「瀞峡」の月 )
9月に天誅組の一隊が、北山郷下組(下北山村)の
前鬼(ぜんき)や池原にやってきた。
熊野地方も厳重な警戒をして通行止めをしたので、
米などが北山郷に入らなくなり、
村人は食糧難で大変困った。
(前鬼の小仲坊)
その後十津川郷士が天誅組を離れ
十津川から退くよう求めたので
天誅組約10人(「西尾家年代記」には80人)は、
笠捨山を越えて9月20日に浦向(うらむかい)村に逃れてきた。
その晩は正法寺(しょうぼうじ)、上平(かみだいら)家、
その他の家で泊まった。
(正法寺の山門と本堂)
一行は南方に逃れようとしたが
紀州藩の軍勢が警戒していたので逃れられず、
進路を北にとった。
翌日上池原村まで来て陣屋や庄屋などの家で休み、
上組(上北山村)の白川村まで行き、
林泉寺(りんせんじ)に泊まった。
下組(下北山村)から120人の人足が
かり出されたという。
(秋の花 リンドウ)
終焉
9月23日、一行は白川を出発しようとしたが、
村人が全部山中に逃げてしまって人足がいなくなり、
下組の村々も人足に応じるものがなく、
やむなく荷物を捨てて寺を焼いて北に向かった。
一行は伯母峰(おばみね)を越えて
東吉野村鷲家口(わしかぐち)にたどりついたが、
ここで彦根藩、津、紀州各藩の軍勢に攻められ、
吉村ら多くの者が死亡した。
中山忠光ほか7名の者は
大阪に逃れた。
(天誅組が越えた笠捨峠の前山を、浦向から望む)
その後も追討軍が次々と北山郷にやって来ては
村人は人夫にかり出され、
また軍勢の宿泊や接待で難儀した。
さらに警戒が厳しくて道路が不通となり、
物資が入らなくなって大変困った。
正法寺の山門には、そのときの幕府軍の銃痕が、
今も門の扉に残っている。
(正法寺山門に
うがたれた銃痕)
天誅組の乱が起きてから今年平成22年で
150年近くの歳月が経過している。
平成22年 2月9日
下北山村・中西宮子
(左が十津川郷志、中央が吉村寅太郎の肖像画
郷土出版社「目で見る五條・吉野の100年」より)