観光いろいろ

「神武天皇」が休んだ山

更新日:2012年03月29日

神武天皇九州から大和「東征」した際に、

下北山村に立ち寄ったとの伝承があります。

神武天皇は村内にある川沿いの小山に登り、

頂上で石に座って休憩したと言われているのです。

その「西村山」を紹介します。

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(清流「西の川」から見上げる「西村山」)

神武天皇が座った石

下北山村の「上桑原(かみくわはら)」という地区に、

「西村山」という小山があります。

すぐ横を流れる「西の川」からわずか

60mほど上がっただけの山ですが、

麓の集落に囲まれたその小山は

県道からよく目立ちます。

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その頂上には幅80センチほどの平たい石があり、

地区の人たちに「じんむさん」と呼ばれています。

その石に神武天皇が座って休憩した

と言われているからです。

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(左下が、神武天皇が座ったといわれる石

背後の石碑には「神武天皇 遥拝所」と書かれています)

困難を極めた「東征」

ではどうやってここまでたどりついたのでしょう。

ここで神武天皇「東征」の足跡を簡単に紹介します。

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(ヒメレンゲ)

「神倭伊波礼毘古命」(かむやまといはれびこのみこと)

もしくは「神日本磐余彦尊」と呼ばれる神武天皇は、

九州の日向国(ひゅうがのくに)に住んでいましたが

45歳のとき、大和を目指して

五瀬命(いつせのみこと)、稲飯命(いなひのみこと)、

三毛入野命(みけいりののみこと)の3人の兄と共に

「東征」に出発しました。

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しかし五瀬命は長髄彦(ながすねびこ)との戦いで

流れ矢を受けて負傷。

一行は生駒を越えて奈良盆地に入ることができず

紀伊半島にそって海路を南下しますが、

途中で五瀬命が亡くなってしまいます。

さらに熊野灘において暴風雨に見舞われ、

嵐を静めるために稲飯命と三毛入野命の2人の兄が

入水しました。

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こうして悲しみを乗り越えて「熊野」に上陸した神武天皇ですが、

突如大熊が現れ、その妖術によって

軍勢は気を失って倒れてしまいます。

そのとき神武天皇を心配した天照大神(あまてらすおおみかみ)

地元の豪族である高倉下(たかくらじ)

一振りの霊剣(布都御魂・ふつのみたま)を授けました。

するとこれを受け取った神武天皇は、

たちまち正気を取り戻したといわれています。

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神武天皇は海から内陸に向かおうとしますが、

険しい山岳に阻まれ立ち往生します。

そのとき夢に天照大神が現れ

「これより奥には荒ぶる神々が大勢いるから、

容易に踏み込んではならない。

八咫烏(やたがらす)を遣わすから、

その案内に従うがよい」と言います。

八咫烏に案内されながら進み、

やがて宿敵長髄彦と対決。

形勢が不利になったとき鳶(とび)が飛来し、

神武天皇の弓の上に止まるや金色の光を発しました。

すると長髄彦の軍は混乱し、

神武天皇はようやく勝利を手にしたと伝えられています。

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(紀伊半島を貫く大峰山脈)

様々な「国つ神」

八咫烏の案内で吉野に向かった神武天皇ですが、

その途中で様々な住民に出会います。

吉野川の河尻(下流)では

ヤナを作って漁をしている人がおり、

彼は「国つ神贄持(にえもつ)の子です」と名乗りました。

阿陀鳥飼(あたのうかい)の先祖と言われていますが、

実際、奈良県五條市には阿田、阿太などの地名が残されています。

また、大台ケ原の北にある川上村和田が、

それに相当するのではないかとの説もあります。

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(下北山村の清流)

さらにあるときは井戸の中から

体が光って尻尾のある人物が出てきました。

井光鹿(ゐひか)といいます」と名乗った彼は、

吉野首(おびと)の先祖と言われておりますが、

奈良県吉野郡の川上村には

国道169号線から東に入ったところに、

井光(いかり)という地区があり、

井光神社が存在しています。

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(下北山村大又谷)

また山に入ってゆくと岩を押し分けてきた

尾のある人物にも出会いますが、

彼は「石押分(いわおしわく)の子です」と名乗りました。

吉野国栖(くず)の先祖と言われていますが、

奈良県吉野郡の吉野町には国栖という地名が、

国道169号線から宇陀市に抜ける

県道の途中に残っています。

こうした国つ神たちに出会いながら

神武天皇宇陀に進んでゆきました。

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(上陸候補地のひとつ、三輪崎の海岸)

「東征」ルートはどこか

このように様々な伝説に彩られた神武天皇ですが、

実はどの道を通って紀伊半島を縦断、もしくは横断したのか

はっきりとは分かっていません。

紀伊半島には各地に神武伝説が残っていますので

あちらこちらに寄航しながら

潮岬を越えて熊野に入ってきたことは確かです。

しかし上陸後に敵と戦った「熊野」がどこであるかについては、

①三重県大紀町錦(にしき)

?三重県熊野市二木島(にぎしま)町

③和歌山県新宮市三輪崎(みわさき)

④和歌山県那智勝浦町浜ノ宮

などの候補地があり、はっきりとは定まっていません。

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(神武伝承が残る大紀町錦の夕焼け)

ただ神武天皇が

那智勝浦町那智の滝を訪れたことや

新宮市において霊剣(布都御魂・ふつのみたま)を授かったこと、

奈良県吉野郡十津川村にある玉置神社

武運を祈願したことなどは確かなようです。

さらに神武天皇を案内した八咫烏(やたがらす)は、

玉置神社周辺の人々の先祖であるともいわれています。

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(下北山村「西の川」)

そして「じんむさん」こと、

神武天皇が座ったといわれる平らな石がある

下北山村上桑原「西村山」は、

玉置神社の裾野を蛇行しながら流れる

北山川の上流にある七色の集落から、

「不動峠」(現在は不動トンネルが開通)を越えて下北山村に入り、

山道を下って「西の川」にたどり着いた地点、

集落が広がる川のほとりにある小山なのです。

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(西村山からのはろばろとした眺め。遠くに笠捨山が見える)

もし本当に「西村山」神武天皇が休憩したのならば、

謎の「東征ルート」を解明する

手がかりのひとつになるのではないでしょうか。

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(黒いペンの先にあるのが「西村山」。 また地図左下のピークが「笠捨山」

「笠捨山」から稜線の西側を通り、稜線を越えて浦向に下りる点線が「笠捨越」)

実際、神武天皇は玉置山からどのような経路で

「西村山」に来たのでしょう。

一番一般的なのが、大昔からの生活道路であった

尾根道(いわゆる後世における「大峯奥駈道」)を通り、

「佐田辻(さだのつじ)」(後世における「行仙の宿」

から浦向(うらむかい)に下る

「笠捨越(かさすてごえ)」を通るルートです。

(ただしずっと尾根道で来たのか、

大峯奥駈けのように十津川村の上葛川に一度下りて

翌日「笠捨越」を決行したのかは分かりません)

そこで「西の川」にたどり着いた一行は、

集落があったと思われる(それ故伝承が残っている)

上桑原まで足を延ばし、しばしの休憩をとったのかもしれません。

「西の川」を遡ればやがて「明神池」にたどりつきます。

そこを下れば「池原」地区となり、

北山川」沿いの国道169号線に合流します。

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(明神池)

もしくは「西の川」を下り、途中で小さな峠を越えることによっても

「北山川」に簡単に抜けることができます。

「北山川」沿いに遡れば

やがて負傷者を抱えた神武天皇の一行が湯治をしたとの伝承が残る

上北山温泉「薬師湯」や、

神武天皇「国見」をしたとされる「大台ケ原」に至ります。

そして分水嶺を越えて「吉野川」に下ると、

今度は「井光」のある川上村「国栖」のある吉野町

宇陀へと繋がっているのです。

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(西村山への登り口)

古代史のロマンをかきたてる

知られざる史跡「西村山」

私有地のため自由に登れなくなっていますが、

一度この地区を訪ねてみてはいかがでしょうか。

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(池原の桜並木)

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【下北山村の歴史】はこちら

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