観光いろいろ

隠された神域「前鬼・不動七重の滝」へ

更新日:2010年07月15日

▼金色の修行者

明治の終わりごろの話です。

大峯山脈の麓の集落である日、

夕暮れどきに民家の戸をたたく音がしました。

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(下北山村の民家)

中にいたおばあさんが玄関に出ると、

一人の「行者さん」が戸口に立っていました。

見ると装束はすり切れ、あちこちに泥がこびりついています。

おばあさんは一目で

大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)を越えてこられた行者さんだ」と分かり、

丁寧に中に招き入れました。

彼女はいつもこうして

行者をもてなす人だったのです。

そしてまず、風呂の準備に取りかかりました。

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(ヤマジノホトトスギ)

薪がパチパチとはぜ充分に湯が熱くなったころ、

彼女は「行者さん」を風呂場に案内し、

その後しばらくしてから着替えの浴衣を持って

脱衣場の戸をそっと開けました。

そこで風呂から上がり戸に背を向けて立っていた

「行者さん」の背中を見たとき、

彼女はアッと息を呑んだのです。

なぜなら「行者さん」の全身が、

「金色(こんじき)に輝いていた」からです。

「なんと偉い方に来ていただいたことだろう」

そう思った彼女は家族にもそのことを話し、

その夜は出来る限りのごちそうを作って

「行者さん」をもてなしました。

翌朝、その「行者さん」は家の人たちに

「お札(ふだ)」を一枚手渡し、

「困ったことがあったら、これに祈りなさい」

と言って出発しました。

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(冬の下北山村)

それからしばらくして、

おじいさんが重い病にかかってしまいました。

「もはや手の施しようがありません」と医者から言われ

おばあさんは真っ青になりましたが、

そのとき「行者さん」がくれた「お札(ふだ)」のことを

思い出したのです。

彼女はタンスの中から「お札」を取り出して、

藁をもすがる思いで祈り始めました。

すると隣室で寝ていたおじいさんが、

「何やら楽になったぞ」と言って

ムックリと起き上ったではありませんか!

そしておじいさんの病は、

その日を境にすっかり良くなってしまったというのです。

医者も驚く奇跡の回復でした。

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(「難を転ずる」縁起の良い木として好まれた「南天」)

これは下北山村の隣、熊野市で実際にあった話ですが、

昔はこのように「一人歩きの行者さん」をもてなす一般家庭が

大峯山麓の随所にありました。

下北山村池原にも、

「おばあちゃんがいつも行者さんをお泊めしていした」

というお宅が何件もあります。

明治5年、政府によって「修験道」が廃止に追い込まれたことで

「世を捨てた孤高の修行者」は激減してしまいましたが、

そんな中でもなお行を続ける「行者さん」が存在したのは、

代価をもらって宿泊の便宜を図る「宿坊」とは別に、

こうした一般家庭による「行を手助けする風習」

各地で連綿と受け継がれてきたからに他なりません。(※)

※(明治5年の時点で、日本には17万人

「修験者(しゅげんしゃ)」がいたそうです。

現在の人口に換算すると、60万人を越えることになります)

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(冬の「大峯奥駈道」。「行仙岳」直下で)

歴史の中では全く無名の存在でありながら、

この「行者さん」のように「金色(こんじき)のオーラ」を発する

――すなわち「悟りを開いた」――人物は、

当時の日本に一体どれだけいたのでしょう。

そしてそのような隠れた「成道者(じょうどうしゃ)」がいたからこそ、

村人は一介の修行者や

諸国を遍歴する「聖(ひじり)」たちを

喜んでもてなしたのだと思われます。

四国において「お遍路さん」「お接待」する風習が

現代にも残っているように、

大峯山麓の村でも行者たちを接待して「功徳を積む」という考え方が

人々の間に深く根を下ろしていたのです。

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(「大峯南奥駈道」から望む「大台ケ原」方面の夕暮れ)

▼秘密の行場

仏像金箔が貼られ

西洋においては「聖者」の頭上に金色の輪が描かれるように、

悟りに達し「金色(こんじき)のオーラ」に包まれた修行者は、

決して集団行動をとらなかったと思われます。

なぜなら単独で行(ぎょう)じないと、

自分自身の「波動の高さを維持する」ことができないからです。

そのためそのような人々は、

一般の修行者が決して訪れることのない

「秘境」を必要としました。

そういった「秘密の行場」のひとつが、

前鬼の下流にある「前鬼・不動七重の滝」だと言われているのです。

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(前鬼・不動七重の滝)

この滝はかつて「前鬼の大滝」と呼ばれ、

前鬼に物資を運ぶための峠越えの道「牛抱坂(うしだきざか)」(※)から

遠くに眺めるだけの存在でした。

※(5万分の1の地形図にはこの道が載っていますが、

植林と法面(のりめん)工事のため

現在は入口が分からなくなっています)

「山林経営」のため前鬼一帯の森が伐採された大正時代

「前鬼口」からこの滝の下まで

木材を運ぶための「木馬道(きんまみち)」(※)がつけられたことにより、

ようやくアプローチが可能となったのです。

※(「木馬道」とは緩やかな山道に、

線路の枕木のように丸太を並べた道のこと。

この上を滑らせながら材木を運びました)

前鬼の人たちは伐採した木々を前鬼川に流し、

さらに滝の最上段から落として

河原で製材したということです。

上から3段目の一番大きな滝は落差が80mもありますし

その後も小刻みに滝と滝壺が連続しますが、

そこから落としても折れない

巨木ばかりであったそうです。

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(前鬼川の源流近く

大日岳の東にある「千手岳」)

戦後、水力発電のために池原ダム」を作ることとなり、

昭和36年、水没する「木馬道」の代わりに

今の林道が崖の中腹に設けられました。

「前鬼・不動七重の滝」

「秘密の行場」から、

前鬼へのアクセス途上にある

「林道沿いの撮影ポイント」になってしまったのです。

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(ヒガンバナ)

▼妙音天の祝福

かつてこの滝は、

藪をかき分けながら道無き道を行くか

「前鬼川」沿いに遡るか、

あるいは淵を泳ぎながら前鬼の里から降りてくるよりほか、

たどり着く方法がありませんでした。

しかし北アルプスの懸崖(けんがい)「剱岳(つるぎだけ)」の頂上で

奈良時代の「錫杖(しゃくじょう)」が見つかったくらいです。

修行者というのは「神に呼ばれ」さえすれば、

人跡未踏の険しい山河に

喜んで足を踏み入れてきたのです。

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(下北山村 清流の淵)

事実、「前鬼・不動七重の滝」

最上段の滝の上には

浅く広々としたテラスのような美しい淵が広がっており、

そのほとりは素晴らしい「瞑想の場」であると言われております。

また滝下の河原で三日三晩四日四晩「座禅」を続けると、

「天の妙音」が谷に響き渡ったとの話もあります。

富山県・立山山麓にある

落差350m「称名滝(しょうみょうだき)」は、

その滝の音が「称名を唱える声」に聞こえるという理由で

名付けられた滝ですが、

実はこの「前鬼・不動七重の滝」

それに匹敵するくらいの「妙音の滝」として、

「成道(じょうどう)した修行者」のみが知る

「隠された神域」であったのです。

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(下北山村の清流)

ここで役行者の話をいたしましょう。

彼は大阪府にある「箕面滝(みのおのたき)」

修行をしていた20代のころ、

「弁財天」の助けを得て「悟りを開いた」と言われています。

海や湖、川や池のほとりに

まつられることが多い「弁財天」

すなわち「弁才天」は、

別名「妙音天」とも呼ばれており、

元はインドの聖河・「サラスヴァティー川」の化身。

音楽言葉学問を司る女神と言われ、

二本の手で「ヴィーナ」(琵琶)を奏で、

一本の手には「ヴェーダ」というバラモン教の聖典を、

もう一本の手には数珠を持っています。(※)

※(「弁才天」真言(しんごん)「オン ソラソバテイエイ ソワカ」

サンスクリット「オーム サラスヴァティー スヴァーハー」を

音訳したものです)

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(オオムラサキツユクサ)

子供のころから岩に「梵字」で仏の名前を書いては

それに手を合わせていたという役行者が、

「サラスヴァティー女神」の助けを受けて「成道した」というのは、

大変重要な意味を持っています。

なぜなら水のほとりにまつられている「弁才天」

「水の洗礼」を司(つかさど)る神であり、

「成道」を目指す修行者は

修行のある段階で必ずこの、

「弁才天」「水の洗礼」を受けなければならないからです。

そして「前鬼・不動七重の滝」を擁する

幽邃(ゆうすい)な「前鬼川」は、

そうした「洗礼」を授(さず)かるのに

最もふさわしい「神域」であるということなのです。

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(飛鳥の祝福)

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