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村とともに歩んできた「正法寺」の歴史 1

更新日:2012年03月22日

村の歴史のシンボル・「正法寺」の由来 1

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(初めは恵日院と呼ばれていた正法寺)

下北山村の寺垣内(てらがいと)には、

正法寺(しょうぼうじ)という古い寺があります。

村の歴史を象徴するかのような様々なエピソードを持つ

「正法寺の由来」が、額に入れて本堂の鴨居に掲げられています。

このたびすぐ近くにある下北山村小学校の小学生が

正法寺の歴史について調べました。

そのときの資料をもとに、寺の由来について書かれた額の

内容をここに紹介いたします。

恵日院と大塔宮護良親王

正法寺は、もと恵日院(けいにちいん)といい寺垣内・区内の宮の谷に、

延暦三年(784年)に、はじめて開かれたものと言われています。

今より灼650年前元弘二年(1332年)、

後醍醐天皇の第3皇子、

大塔宮護良親王(おおとうのみや もりながしんのう)が、

時の武家政権を握っていた北条高時の追手を避けるため

山伏の姿に身を変え、戸野兵衛良忠(とのべいよしただ)、

武蔵房豪雲、赤松則祐、木寺相模入道勝憲、村上彦四郎などに護られ

北山郷に入り、浦向(うらむかい)に住んでいました。

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(冬の下北山村)

楠多良左衛門正信などの協力で、恵日院に草庵を急造し、

ここを仮の御座所と定められました。

この故に恵日院は、大塔宮祈願所と呼ばれました。

しばらくご滞在のあと吉野山へ移られ、

戸野兵衛吉野までお供したあと

再び浦向正信の館に帰り、

恵日院を現在の寺垣内字前田の地に移し、

寺名を華清山・正法寺と改めました。

建武二年(1335年)十二月でありました。

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(吉野にある金峯山寺・蔵王堂)

その後、大塔宮鎌倉において

足利直義(あしかがなおよし)の手により亡くなったと聞いた戸野兵衛は、

宮のあとを追って殉死したと伝えられており、その遺跡として

墓地が浦向(うらむかい)字トンノに現存しています。

追号して

「再開基華清院殿大峰祖廓元機大居士」

(さいかいき かせいいんでん だいほうそかくげんき だいこじ)とあります。

彼の没後、毎年3月10日と7月15日には村中の者が集まり

「とのべいさま」祭りをしていましたが

享保二年(1717年)正法寺が火災のため全焼したことにより、

この祭礼も廃止されました。

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(浦向の奥、奥地川の紅葉)

正法寺と大峯修験

しかし寺の建物は、再び檀徒の力で翌年二月

再建されました。

恵日院の時代はもとより、

正法寺初期・中期のころの資料などが少なく

明確なことは分からないのですが、

正法寺はもともと大峯山の山岳仏教

強い影響を受けていたものと思われ、

その発祥は「役行者」(えんのぎょうじゃ)が開いた「大峯奥駈け」、

すなわち修験道場である「峯中七十五靡」(ぶちゅうななじゅうごなびき)

後方支援をする平坦地の基地として、

隆盛していたものと思われます。

また大和長谷寺(はせでら)

京都今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)(ともに真言宗)と同じく

正法寺十一面観音をおまつりしていることから推察しても、

もとは真言宗派の寺院として地侍、豪士らの

強い支持を受けていたものと考えられます。

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(「大峯奥駈道」22番目の靡「持経の宿」(じきょうのしゅく)

役行者が「孔雀明王経」を収めたと言われています)

正法寺と禅宗

当時の天台真言各派の寺社は、

兵を養い武力を持ち中央政治にも関わりを持っていましたが、

織田豊臣徳川の時代の武家中心の中央勢力が強くなるとともに、

その圧迫を受けて寺院の存在感も薄くなってゆきました。

一方、禅宗曹洞宗は、武士の間でも信仰するものが多く、

徳川幕府切支丹禁制のために、

住民基本台帳に代わる「宗門人別帳」が作られ、

これを管理するのが寺院の仕事となりました。

正法寺に保存されている「開山和尚直筆、御状の写」(江戸時代初期)には、

寺垣内、浦向、佐田三区の庄屋檀家総代が中心となり協議のうえ、

熊野市奥有馬長生山・安楽寺(ちょうせいざん・あんらくじ)

第十世 鉄丸能鈍和尚(てつがんのどんおしょう)を開山として迎えた」との

記載があります。

これにより、同寺の末寺して法縁を結び、

系列下曹洞宗に列したものです。

本寺、長生山安楽寺については「紀州風土記」

「禅宗曹洞宗派、防州(山口県)龍文寺(りゅうもんじ)

熊野五ヶ寺の一つにして、郡中曹洞一派の指揮をなす」と記されています。

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(正法寺の梅)

またその縁起については、

『有馬和泉守』(ありまいずみのかみ)当荘を領せし時、

文安元年(1442年)防州龍文寺下僧、海雲和尚、熊野権現に詣でたのを、

和泉守が城中に招いて和尚に帰依し、ついに寺院を創建し、

海雲和尚を住寺として、同二年七同伽藍落成すという。

『堀内安房守』(ほりうちあわのかみ)の時まで、

寺領も百石寄せられたが、

天正年間の兵火(秀吉の熊野征伐)の際にことごとく焼け、

その後再建されたが、元の姿の影もなく、

慶長七年(1603年)浅野氏に願い出て高十石を寄せられた」

と記されています。

正法寺の変遷

現在の正法寺建物は、明治四十三年(1910年)の改修によるものであり、

寺で保存する文書によると

豊臣秀吉の検地の際、寺有地として

除地(よけち:諸税の免除)扱いにしてほしいと願い出ています。

その中に

寺垣内の中の住吉八幡宮を、

当山の鎮守として正法寺住持により、

永禄六年(1563年)御遷宮をした旨、棟札に記載あり」と書いてあり、

八幡宮山二十八間(51.0平米)、二十六間(16.4平米)、

門前地蔵堂屋敷十二間(5.5平米)

その後数回の検地の際も同様に全て、

寺有地として除地と認められています。

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(住吉神社で春先に咲くバイカオウレン)

正法寺の建造物

正法寺に伝わる「雲版」(うんぱん)

永享九年(1429年)室町時代の作で、寺院としては、

かなり古い時代に偉容が整っていたものと思われます。

初期の正法寺建武二年(1335年)

現在の地に建てられていることが推定できますが、

この建物が火災に遭い、その後享保三年(1718年)

第三世大仙海音和尚の代に再建されました。

(現在の本堂内部は、大部分が当時の物です)

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(正法寺の本堂)

山門は、天明二年(1782年)第十世大元豪海和尚の代の建物で

そのとき境内を門前にあった地蔵堂屋敷まで広げたため、

山門の老松はこのときの記念植樹であったと推測できます。

(樹齢200年余り)

その後明治四十三年(1910年)三月

第十八世武長仏眼和尚(たけながぶつがんおしょう)の代に

大改造がありました。

その当時の文書に

「当寺院は享保三年の建築で約二百年経過。

従前、本堂・庫院は一棟で桁行十三のながき平屋であったのを分離し、

本堂は棟を高くあげ、

外部は新材を用いて全部改修し、庫院、玄関、倉庫、物置、浴室などは新築、

更に鐘楼を建築し、一檀徒の寄進により梵鐘を吊るし

面目一新した」とあります。

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(正法寺の鐘楼)

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