観光いろいろ

村とともに歩んできた「正法寺」の歴史 2

更新日:2012年03月26日

村の歴史のシンボル・「正法寺」の由来 2

shoubouji_nanntenn

(正法寺本堂)

大塔宮の熊野落ち

小野芳彦翁「熊野史」第十一章・

大塔宮熊野落ち「竹原八郎・戸野兵衛」の条に

「戸野とは今の十津川村大野東野(とうの)の事であり、

戸野兵衛は、この地きっての土豪。

大塔宮との不思議な出会いに感激し黒木の御所を造り、

宮を奉じて守備を固めていたが、土地狭く、険しく、

各方面との対応にも不便なので、

叔父の竹原八郎入道と図り、

竹原(和歌山県北山村)の八郎の館へ宮を移し、

戸野兵衛自身の住居もそこに移した。

さらにその家を隣の村、下北山村浦向に移した」と記述されています。

asebi

(浦向付近で春に咲くアセビ)

大峰禅定の秘所 池之峯

千葉政清遺文集「大塔宮、熊野落ちについて」によると、

南北朝時代、南吉野における勤王の中心地は

十津川よりむしろ北山地方であった。

これは、北山が吉野から大峰を経て熊野にいたる、

いわゆる山伏道が北山側にあり、

伊勢路へも便利であった為と思われる。

十津川の古地図によると、山伏の通路は熊野より玉置山を通り

北山に向かうように示されている。

また、天正太平記には

(大塔)宮は兎角して、

大峰禅定の秘所 池之峯を上がり、転法輪の嶽を過ぎて

十津川へ着き給ふ』とあるが、

この地名の池之峯や、転法輪嶽(てんぽうりんだけ)はともに北山地方にあり、

山伏が峯入りに不断通行する道筋であったと思われる

この天正太平記の記事は、まことに意味が深い」

と記されています。

taigann2

(池峰にある「明神池」と「池神社」)

天正太平記と転法輪嶽

この「天正太平記」は、室町末期に原本の太平記を書写した

最も古い訳本であるといわれていますが、

まだ見ることはできません。

前に述べた「熊野史」にも記述されている

古書(紀伊国名所図会・巻之六 大塔宮社)の条に

天正太平記に(宮は兎角して大峰禅定の秘書 池之峯・・・・・・云々)」とあり、

このあとに「秘所池の峯。転法輪の嶽、いまだ詳ならず」と

付記されています。

池之峯は、下北山村池峰であることは明白ですが、

果たして転法輪嶽とは、どの山を名指したのでしょうか。

tennpourinndake

(自然林に包まれた晩秋の「転法輪岳」頂上)

「大和名所図会・巻六」には

平治の宿(へいじのしゅく)、

これより南二十町で転法輪嶽、

また南へ二里十六町で

佐陀辻(佐田辻)・行善の宿(行仙宿・ぎょうせんのしゅく)」

と書かれています。

これを現在の地図にあてはめてみると、

転法輪嶽というのは、明神池の西方の尾根を

登りつめた地点(標高1281m)であることが確認され、

古老によると

「村人はこの嶺のことを昔から『てんぽり』と読んでいた」といいます。

gyousennnoshuku

(行仙の宿(ぎょうせんのしゅく)と行者堂)

「峯中記」と明神池

この尾根に沿って登る山路は、

もともと山伏が不断に通行するいわゆる

「行者古道」(大峯奥駈道)であったと思われ、

尚この転法輪嶽を立証する古文書を拝見できました。

それは「峯中記(ぶちゅうき)」という、長さ12mの巻物で、

文明十八年(1486年)佛子教典謹書写之、と書かれ、

橋本家(元浦向出身で現在大阪に御住居)に保存されており、

山伏先達が書いた峯中の案内書と思われます。

この文中「転法輪嶺、是より北東に当たって池の神社という大池あり、

この池は、神代の昔に出池す」と記載されています。

akinomyoujinnike5

(明神池)

明神池から南西の方に、転法輪を望むことができます。

転法輪岳より遥か眼下、翠の木立の間に見える大池(明神池)は、

このあたり神秘漂い、いかにも

大峰禅定の秘所・池之峯」と、峰行く山伏達の目に映ったことでしょう。

また、

行仙宿これより笠捨の森(八丁なり)、この処、さる建武二年の頃、

平地宿まで戸野法印この山を警護せし所。

双峯八丁の間を(戸野院内)と申す」とも書かれています。

heijinoshuku

(第21番目の靡(なびき)である「平治の宿(へいじのしゅく)」)

大塔宮と大峯奥駈道(行者古道)

(大塔)宮は、熊野にも御座しけるが

大峯を伝ひて吉野にもおわしまし通いつつ、

さりぬべき隅々にはよく紛れ物し給いて、

たけき御様をのみあらわし給へば、

いと賢き大将軍にていますべしとて

付添ひ聞ゆる者いと多し」と

増鏡(ますかがみ)という古書に書かれていますが、

大塔宮は吉野と熊野を結ぶ、

峯中の「行者古道」=大峯奥駈道を利用して、

進出鬼没のご活躍に、北山の里は地の利も良く、

またとない隠れ家であり、根拠地として恵日院を選ばれた事と思います。

tennpourinn_kasasute

(「転法輪岳(てんぽうりんだけ)」から望む

「大峯南奥駈道」の山並み。右上は「笠捨山」)

大塔宮の挙兵

大塔宮が恵日院で過ごされた歳月は明らかではありませんが、

元弘二年六月(1332年)の光厳院の

御辰記(ごしんき:北朝方の天皇の日記。真実性の高い古文書)に、

廿六日(26日)甲子、伝へ聞くに、伊勢国に悪人ども

烏合の衆をなして所々攻め来たり、

その勢い強く、武家の使者を遣わして、検べさして居る」と書いてあります。

さらにこう書いてあります。

廿八日(28日)丙寅、伊勢の凶徒、尚勢いが強い旨、

その上、地頭など合戦し多く殺さる。

廿九日(29日)丁卯、武家より差し使はした検便が帰っての報告によれば、

風聞にたがわず、凶徒は在家を多く焼き払い、

地頭三人打ち取られ守護代の家を焼き打ちして引き揚げた。

これは熊野山より、大塔宮の令旨を帯びた竹原八郎入道、

大将となりて襲い来たったもので、驚き入った事件である・・・・・・」

shoubouji_ojizousama

(正法寺のお地蔵様と山門)

大塔宮が北山へ見えたのは、

竹原入道が伊勢へ攻め入った時期と同じ頃で

歴史研究家によるとこの作戦は、

楠木正成とも合議の上で、楠木正成の千早城、

大塔宮の吉野城の両城ともに、

同元弘二年一月の築城であるので、

それを予定して敵目をそらすための陽動作戦であり、

各方面へ宮の令旨を飛ばし天下の同志の奮起を促す

「のろし」でもありました。

やがて北条の武家政権が倒れ建武中興にいたる時期を、

宮は北山の里ですごされたわけです。

そして大塔宮は従士などを従え、吉野へ向かって進まれました。

yuuyaketotuki4

(第19番目の靡(なびき)である「行仙岳」登山口から東を望む)

戸野兵衛の宝剣

正法寺の寺院明細帳に

戸野兵衛良忠所持の宝剣は、

浦向橋本泰謙宅に保存せり」と記載され、

当の孫に当たる大阪橋本家に所蔵の宝剣、

従 護良親王 拝領 宝剣

戸野華清院良忠殿

天徳二年(1330年)相州住人

貞  宗

と表記した布袋に入れてあり、宝剣の銘には表裏それぞれ

相州住人 貞宗

天徳二年二月              とある。

「刀剣辞典」によると、

貞宗は相模鎌倉の匠、

近江(現滋賀県)野洲郡高木村の生まれで、

幼名 弘文又助貞という。

相模の五郎正宗、諸国周遊の際、師弟のちぎりをなし、

助貞、相模へ移り住み、その後正宗の養子となり、名を貞宗と改めた。

永仁六年(1294年)に生まれ

貞和五年(1349年)五十二歳で没す」とあります。

minamiokugake

(冬の「大峯南奥駈道」 「行仙岳」付近)

宝剣に銘されている元徳二年二月は、

貞宗三十六歳の時で、大塔宮が北山の地を踏まれたと言われる

元弘二年六月より二年余り前であるので、

年代的にも何等矛盾や不自然さはなく、

信頼されてもよいのではないかと思われます。

以上いろいろな古文書や図書をひもときつづってきましたが

正法寺の歴史はまことに高遠で

ごく一部を垣間見たに過ぎません。

この資料作成に当たり、引用させて頂きました

貴重な研究著書の故人諸先生方の御霊に心より合掌申し上げ、

また種々御協力頂きました方々に厚くお礼を申し上げます。

昭和五十五年十一月五日

永平寺二祖国師七百年大遠忌記念

正法寺大御受戒会に際して

第二十三世 大興龍仙大和尚代

総代会長 奥村健一 謹記

yukinoshakagatake77

(「行仙岳」から望む冬の「釈迦ヶ岳」)

関連記事・リンク

【村と共に歩んできた「正法寺」の歴史 1】はこちら

【下北山村の歴史】はこちら

ページの先頭へ戻る